ジュールス・ウィンフィールドの目指す先
ここで再び「エゼキエル書第25章17節」の登場です。
入りは「お前"聖書"は読むか?」からと決まってるんですね。きっと。
お前"聖書"は読むか?
いや、読まない。
聖書にこういう一説があるんだ、よく聞け。
"エゼキエル書第25章17章。"
"されば、心正しき者の行く道は、"
"心悪しき者の利己と暴虐によって、行く手を阻まれるもの也。"
"愛と善意の名によりて、"
"暗黒の谷より弱き者を導きたる、彼の者に、神の祝福あれ。"
"主なる神はこう言われる。"
"我が兄弟を滅ぼそうとする悪しき者達に、"
"私は怒りに満ちた懲罰を以て、大いなる復讐を彼等になす。"
"私が彼等に仇を返すその時、"
"彼等は私が主であることを知るだろう。"
オレはこの"モンク"を何年も言ってきた。
これを聞いたヤツは、みんな"クタバッタ"。
たいして"意味"は考えなかった。
ただ、人を"バラす"時、相手に聞かせるのにピッタリだと思ったから言ってただけだ。
でも、今朝"あるモノ"を見て以来、いや待てよと思った。
これぁどういうことだ?って。
今の状況で言えば、お前が"悪しき者"で、オレが"正しき者"なのか?
すると、この"9mm"の弾丸は、暗黒の谷でオレを守る"羊飼い"ってことになるな。
あるいは、その逆で、お前が"正しき者"でオレが"羊飼い"、
"心悪しき利己的"なのは"世の中"かも知れねえ。
そう考えりゃ"ラク"だ。でもそれは"真実"じゃない。
真実は、お前は"弱き者"で、オレは"心悪しき者の暴虐"だ。
でも、オレは頑張るぜ。"羊飼い"になれるよう、"死ぬ気"で頑張る!
(撃鉄を戻す)
行け、、、
("マフィン"を食べる)
("ハニー・バニー"の肩を抱いて店を出る)
("パンプキン"に肩を抱かれて店を出る)
おい!そろそろ"引き揚げ"ようぜ!
あぁ、そうしよう。
(右手に"銃"、左手に"ケース"を持ってレジのところまで来る)
(右手に"銃"、左手に"本"を持ってレジのところまで来る)
(右手の"銃"を腹にしまう)
(右手の"銃"を腹にしまう)
(店を出る)
(店を出る)
画像出典:映画「PULP FICTION」
字幕翻訳:戸田奈津子
吹き替え翻訳:徐 賀世子
これ、ちょっと気づいたんですが、
以下の一文が省かれてますね。。
"何故なら彼等は兄弟を護る者、迷い子たちを救う者也。"
画像出典:映画「PULP FICTION」
字幕翻訳:戸田奈津子
吹き替え翻訳:徐 賀世子
これには何か意味があるのでしょうか。
タランティーノなら、こういうところに意味を持たせていそうで考えちゃいますね。
しかしどうにも解せないんですよね。。
何故ジュールスは「奇跡」というか「神の存在を身近に感じた」ということで
「引退」という考えになったのか?
「羊飼い」ってのは多分「善人」のことですよね?
何で「神の存在を身近に感じる」と「善人」になろうと思うのか?
そもそもこの後ジュールスは引退したのか?
ブッチとマーセルスが話していたストリップクラブで、
トイレに行った後マーセルスに引退を告げたのか?
引退したからブッチの家に居たのはヴィンセントだけだったのか?
ということは、「奇跡」が起きなければ、ブッチの家にジュールスも居たのか?
いや、その前に「奇跡」が起きなければ、「第四の男」に2人とも撃ち殺されてますかね。。
何にせよこういう考察ができる映画は面白いですね~。